3.「円満完全な自分」に出会う最短距離 

~内なるダイヤモンドを掘り当てる~

ある時、誰でも「円満完全な自分」に目覚めることのできる手法が一瞬のインスピレーションで私に湧いてきました。インスピレーションで出てきたものですから、最初は本当にそれで間違いないのか評価のしようがありませんでした。

しかし、実際にこの手法に基づいたカリキュラムを進行していくと、人が目の前で「円満完全な自分」に出会い、自らの内からとめどなく湧き上がる喜びの心に感激し、感動に打ち震えて涙を流したり、今まで長年まったく許すことのできなかった恨み辛みが一瞬で消えてしまって、感謝と喜びに変わっていったのです。

そして、その心をもった人が現実生活に戻って、その心のまま生きることで人生を大きく変えていきました。その多くの実例から「円満完全な自分」に出会うための手法として確信を得るに至ったのです。

すでにある「円満完全な自分」を引き出すことを私は「円満完全な自分」を開発すると言っていますが、その手法は大きく二つです。次に、時間的全体と空間的全体という角度から「円満完全な自分」を開発する方法をお話しします。

Ⅰ. 時間的全体から「円満完全な自分」を開発する

私たちが生きている時間を一本の線で表しましょう。すると、最初に「オギャア」と生まれて、「現在」があって、そしていつか「死」にます。

この時間を「一生」と言います。

今までのよくある考え方では、現在から、自分の欲望や願望をもとに、ある特定の将来に対して、目標を立てます。いわゆる成功哲学や願望実現法などの自己啓発の方法がそれにあたります。

たとえば大成功者を見て「金持ちになりたい」「高級車に乗りたい」「海外に別荘を持ちたい」などと、「ああなりたい」「こうしたい」といった自分にとって価値のある明確な目標設定をするわけです。

そして、それに向かって計画を立てる。そして、実行するにあたってやる気を出したり、困難に負けないように積極思考を頭に叩き込んだりするのです。

バラになろうとするチューリップ

しかし、このやり方だと、根本的に間違う可能性があるのです。というのも、自分が本来持っている性質とまったく異なる望みを持って、目標を定めてしまいがちだからです。たとえるなら、自分は本来チューリップの花なのに、バラのように咲きたい、という願望を持つようなものです。

実際の花はそういった間違いは絶対に犯しません。チューリップはチューリップらしく、バラはバラらしく咲くことが最高であり、自然は間違えないのです。しかし、人間は「円満完全な自分」を知る前に、自分とは違う他人と比較して「ああなりたい」「こうなりたい」と思ってしまうのです。

例えば会社の社長に全然向いてない人が、「社長になるのが成功だ」「社長になったら幸せになれる」と思い込んで社長になる目標設定をして、何年か後に社長になっても、家族はバラバラ、身体はズタズタでは本末転倒といえます。しかし現実に、こうした本来の役割でない仕事に無理をして取り組み、苦しんでいる人が圧倒的に多いのです。

もし、あなたが今、ある程度の成功を収め、もしくはそれなりの生活を送り、世間から見れば申し分ないはずなのにいろいろな問題に見舞われていたり、やる気が失われていたりするとしたら、本来やるべきことではないことに取り組んでいる可能性があります。

あなたは自分が何の花なのか、間違えていないと言い切れますか。

目標は一番遠いところから立てる

では、目標はどのように立てればよいのでしょうか。

たとえば、東京に住んでいる人がアメリカに行くことを決めたら、成田空港に行きます。そして、成田空港に行くために、どこの駅に行き、どの電車に乗るか、という次にすべきことが決まってくるのです。

北海道に行くと決めたら、羽田空港に行かなくてはなりません。そしてそのためにはモノレールに乗って、電車に乗って…というように、近いところは後から決まってきます。

目標は一番遠い所から立てるのです。その目標が決まってはじめて、そのために次に何をすべきか、より近いところが決まるのです。

では、私たちのこの人生で一番遠いところはどこでしょう。
それは、この肉体を去るとき、つまり死ぬときです。

人間は例外なくいつか必ず死にます。その時がいつ来るのかは、誰にもわかりません。

あなたが天寿を全うしてこの世を去るときを想像してみてください。

そして、自分の人生を振り返って心の底から、「ああ、自分の人生はすばらしかった!」「最高だった!」「なんていい人生だったんだろう!」と思え、

「いろいろあったけど、今となっては何の一点の曇りもない。やることはすべてやり切った!」「人生の目的、自分の生きる使命、天命を全うした!」

と感じ、そして、愛する人に囲まれて、本当に心の底から「ありがとう!」と感謝の心に満ちあふれて、この世を去れたらどうですか。

あなたにとってこれ以上の最高の人生はありません。これこそ、人生の最高の終着点、究極の結論なのです。

これが、人生の最終目的地であり、この目的地をまずはっきりさせる必要があります。そして、この最終地点から、過去と現在を見ることで、自分がこの人生において何をすべきかが明確に見えてくるのです。

死から生を見る

つまり、現在から将来に目標を立てるのではなく、まったく正反対に、「最高の人生を生き切った」という地点から人生を見ていきます。一度、この世を去る人生最後の瞬間に臨み、そこから生を見るのです。あなたがこの世を去るときに、生きることの尊さ、命の尊さ、時間の尊さがわかります。頭でわかるのではなく、魂でわかるのです。

この世を去る瞬間には、お金も土地も財産も肉体も愛する家族も何も持っていけません。人生で手に入れたあらゆるものをすべて置いていかなくてはならないのです。

そして、肉体の命を置いてあの世に去る時、その時に初めて、後から付け加えたのではない「円満完全な自分」が浮き彫りになります。

あなたが人生最後の瞬間に臨んだその瞬間、これまで大切だと思ってきたものを手放さざるをえなくなり、そして、人生において一番価値のあるもの、すなわち「円満完全な自分」を全身で体感し、魂の底で目覚めるのです。

考えてもみてください。

この人生は一回限りです。

あなたの肉体の命が終わり、この世を去る瞬間になってやっと「円満完全な自分」に目覚め、今回の人生でどう生きるべきだったか、何をすべきだったかに気づいたとしても、遅いのです。

だからこそ、この世を去る瞬間にそれに気づくのではなく、まさに、今、一日も早く「円満完全な自分」である「円満完全な自分」に目覚め、そして、残りの人生をその「円満完全な自分」を出して生き切っていく、自分の本来の役割を知り、それを果たしていくことこそ、人生において最も大切なことなのです。

時間的全体から「円満完全な自分」である「円満完全な自分」を体感し、開発するこの手法を、私は「時間のカリキュラム」と呼んでいます。「最高の人生を生き切った」という一番遠い人生の目的地から、あなたの過去そして現在を見ていきます。

今、肉体をもって生きている時に、この体験をすることで、自分は何のためにこの世に生を受け、そしてどういう役割があり、何をやって残りの人生を生きていくのかという、自分の生きる使命を自覚し、人生の究極の目的が明確になるのです。

そんなことが本当にできるのでしょうか。

約二五年に亘り、十万人以上の方々を見てきた事実から断言できますが、それが可能なのです。肉体を持ったままで、一度「死んで」、時間的全体から人生を見ることで「円満完全な自分」を全身で知る、すなわち体感することができるのです。

Ⅱ. 空間的全体から「円満完全な自分」を開発する

「円満完全な自分」を体感する手法には、もう一つ角度の違うアプローチがあります。次に空間的全体から「円満完全な自分」を体感する手法についてお話します。

あなたは今どこにいますか

あなたは、今、どこにいますか。

たとえば、私は江東区にある自分の事務所にいます。ですが、東京都にいるのも事実です。日本にもいる。世界にもいる。地球にもいる。そして、究極的な捉え方としては宇宙にいます。

どれも正しいのですが、視点を置く次元を変えると見方が変わるのです。次元というのは、空間的な高さと捉えてください。たとえば、宇宙にまで伸びたエレベーターがあったとして、それに乗って上がっていけば次第に次元が高くなり、「どこにいるのか」という問いへの答えも変化するわけです。

そして、このことは、私たちの意識にもあてはまります。私たちはどの次元を意識するかによって、物事の見方、発想がまったく変わってきます。高く上がれば上がるほど広く見えます。そして、一番高いところからは全体が見えるのです。

あなたが日々の仕事をする上でも、それは何のためなのか。自分の給料のためなのか、家族のためなのか、会社のためなのか、お客様のためなのか、業界のためなのか、地域社会のためなのか、日本のためなのか、地球のためなのか、宇宙のためなのか、といろいろな次元があります。そして、どう捉えるかで、出てくる発想が変わるのです。

最も高い次元

では、最も高い次元はどこでしょうか。

それは、宇宙の次元です。もっとも高く完全な次元です。この次元の意識、すなわち生命意識の次元から見ることで、物事の全体、そして完全さ、完璧さが見えるのです。

精神世界に関する本の中には「すべては完全で完璧に起きている」と教えるものもあります。しかし、自分の人生における汚点、辛かったこと、許せない人など、そう思おうとしても思えるものではありません。

しかし、そういった人生における不完全だと思っていた数々の出来事は、今までの経験の記憶により形成された不完全な心で捉えた不完全さであって、完全から見たら、まさに財産としか思えないのです。今までの出来事の何一つ欠けても、今の自分はない、かけがえのない完璧で完全なものだという事実が魂の底から感じられ、はっきり見えるのです。

「なぜあんな嫌なことが起きたのか」という思いは、そのように「嫌なこと」だと捉えている心では決して変えられないし、消せないのです。

しかし、あなたが最も高い完全な意識に入った瞬間、どんなに悲劇的に思えていた出来事も全体におけるその意味、つまり完璧さが見え、その出来事に対する感謝の気持ちがあなたの内側から湧き出してくるのです。

不完全から完全を見ようとする過ち

よく、宗教団体などでは、悩み苦しみ、波立った私たちの不完全な心で、救いを求め、そして外に神仏をつくり、それを一生懸命拝んだりしますが、なかなか救われないことが多くあります。

不完全な心で完全を見ようとしたら、完全なものまで不完全に見えてしまいます。ちょうど、曇った眼鏡でものを見ると、どこまでいっても曇って見えるのと同じです。

不完全から完全が見えるわけがありません。完全から見たら、不完全に見えていたものの完全さが、見た瞬間にわかるのです。

生命意識から見る

空間的全体から「円満完全な自分」を体感し、開発するこの手法を、私は「次元のカリキュラム」と呼んでいます。この手法では、私たちの意識を一番高い次元、つまり、生命意識といった高い意識まで一気に上昇させ、完全なる宇宙視点からすべてを見ていきます。自分、家庭、会社、仕事、日本、世界、地球、宇宙など、あらゆるものを最も高い意識から見ていきます。

果たしてそんなことができるのか。これができるのです。

なぜなら、もともとあなたの「円満完全な自分」とは、その生命意識といえる高い意識に他ならないからです。あなただけでなく、全人類が本来、この意識なのです。

そして、この意識に入ったとき、あなたは一点の曇りもなく自覚します。自分と宇宙とは一体。すべてはひとつ。もともとひとつ。まさに宇宙を自覚するのです。もともと生命意識があなたの本体であったことに気づくのです。

全体が見える視点

意識次元と言っても、あまりピンとこないかもしれません。

いったい何をもって意識が高い、低いと言うのでしょうか。

意識が高い低いというのは、全体で見ているのか、目の前で見ているのか、ということです。たとえば、火事が起きたとき、目の前でそれを見ている人と、全体を見渡せる高いところにいる人とでは、どちらが的確な判断ができるでしょうか。

目の前で火事を見ている人は、目の前で火事になっている家にばかりこだわってバタバタ慌てながら、火が移りそうな隣の家まで見えていないかもしれません。

全体が見えれば、その見えるところで判断できるようになるのです。

意識が高いというのは、より全体像から見て判断できるということです。

ぶつからない世界

もうひとつ別の例を挙げましょう。たとえば、日常生活で頻繁に人間関係のトラブル、ぶつかり合いがある人がいたとします、しかし、その人が意識次元を上げると、人とぶつからなくなるのです。

これはちょうど、飛行機が低空飛行していると、家にぶつかるようなものです。ぶつからないようにテクニックで合間をうまく切り抜けていく人もいますが、そうではなく、次元上昇して、もっと高く飛べば家にはぶつからなくなるのです。

しかし、今度はビルにぶつかります。

もっと高く飛べばビルにはぶつかりませんが、山にぶつかります。そして、さらに高く飛ぶと、ビルにも山にも何にもぶつからない、自由な世界があるのです。

それが高い意識次元から見た世界です。

しかし、あなたの意識がさらに次元上昇していくと、あたかも大気圏を突き抜け、宇宙空間に飛び出し、エンジンさえいらなくなる世界があります。まさにすべてと一体になり、その中で動かされるようにすべてのものが自動的に解決されていくような世界を味わうのです。

もともと宇宙だから、生命意識になれる

次元を上げて、高い意識次元から物事を見るといっても、少しずつ上げていくわけではありません。たとえば、修行して上げていくようなものではないのです。

なぜ、あなたが生命意識の高みにまで上れるのかといえば、それはあなたがもともと宇宙だからです。そのことに気づくだけなのです。宇宙に「なる」のではなく、宇宙を「自覚する」のです。それは一瞬で起こります。 ちょうど、山に登るときに、一合目から足で登っていくのではなく、ヘリコプターで一気に山頂に降り立つようなものです。後から作られたものは一瞬の内には出てこないとしても、もともと内在しているものは、一瞬にして表面化しても何ら不思議ではないのです。